詩篇4篇

指揮者のために。弦楽器に合わせて。ダビデの賛歌。

4:1 私が呼ぶとき答えてください。私の義なる神。追いつめられたときあなたは私を解き放ってくださいました。私をあわれみ私の祈りを聞いてください。

 初めは。神様に対する強い求めです。呼ぶときに答えてくださることを願いました。「あわれむ」と訳されている語は、人の側からは、「懇願する」ことを意味し、神様の側からは、「求める者に喜んで答える」ことを意味し、契約の条項です。これは、契約を踏まえての祈りです。

 彼がこのように大胆に祈ることができるのは、彼が正しい歩みをしてきたからです。彼が正しい歩みをしてきたことは、彼の経験の言い表しから明らかです。彼は、追い詰められたときに主によって解き放たれる経験をしてきました。主は、答えられたのです。

 また、「私の義なる神」という言い表しは、神が義であることを言い表していて、その方を「私の神」と呼び、彼自身が義である神にふさわしい者として歩んでいることを裏付けています。彼が正しい歩みをしていなければ、「私の義なる神」と言い表すことはできません。

・「あわれむ(旧)」→懇願する、(主が)求めに対し喜んで答えること。このことは、御言葉に根拠がある。契約の条項です。

4:2 人の子たちよいつまで私の栄光を辱め空しいものを愛し偽りを慕い求めるのか。セラ

 これは、神様の言葉です。

 人が「空しいもの」と「偽り」を愛し慕い求めることを咎めています。ここでは、特に偶像に限ったことではありません。

 空しいものとは、この世のものです。それを愛することです。また、それは、偽りです。六節にその具体例を見ることができます。

 しかし、そのように空しいものを求め、神の教えから離れたものを求めることは、神様の栄光を辱めることになります。

 このように、神の言葉を紹介することで、自分はそのようなものを求めている者ではないことを明らかにしました。

・「私の」→わたしの。

4:3 知れ。主はご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき主は聞いてくださる。

 「知れ。」と言いました。なぜ、主が祈りを聞かれるのか、その理由を明らかにしています。

 「御自分の聖徒」は、神に対して敬虔な者すなわち、神に対する義務と神への尊敬から進んで愛を示す者のことです。そのような者を特別に扱われるのです。ですから、呼ぶときに答えてくださるのです。

4:4 震えわななけ。罪を犯すな。心の中で語り床の上で静まれ。セラ

 それ故、敬虔に歩むのです。罪を犯さないのです。「震えわななく」ことは、恐れや怒りなどから震えるという意味です。ここでは、三節の「敬虔」との関連で、主を恐れることを表しています。強い恐れ、畏怖を表しています。

 主を畏れ敬うことで、当然、罪から離れるのです。

 「床の上」は、ただ一人の場所です。それは、多くは夜です。そこで、主との時を過ごすのです。深い恐れのうちに、尊敬と愛のうちに主を覚えるのです。

 「静まれ」と訳されていますが、原意は、口が利けないことです。これは、自分を主張しないことを表しています。

4:5 義のいけにえを献げ主に拠り頼め。

 そのうえで、「義のいけにえを捧げる」のです。これは、物質の生贄を捧げることではなく、義の行いをすることを表しています。それが神様に栄光を帰しますから、「いけにえ」と表現されています。神の栄光のために義の行いをするのです。それが神を恐れる者のすることです。

 義の行いは、単なる義務や無味乾燥のものではないのです。主に対する恐れを持ち、この方を尊敬し、進んで愛するなら、この方の栄光を求め、その方が喜ばれることを求めるのです。義の行いをすることがこの方を喜ばせます。義の行いとは、示されている御心を行うことです。

 その上で主に依頼むのです。それがダビデの態度でもありました。それが、聖徒なのです。主は、そのような者を喜ばれて、特別に扱われるのです。

4:6 多くの者は言っています。「だれがわれわれに良い目を見させてくれるのか」と。主よどうかあなたの御顔の光を私たちの上に照らしてください。

 多くの者と記されていて、特定されていません。それは、特別な人たちではないということです。誰もが言ってしまうのです。彼らの願いは、自分の目に良いことを見たいということです。自分を喜ばせるものを求めているのです。具体的には、七節に記されているように、穀物と葡萄酒が豊かにあるようなことです。

 それに対して、ダビデが求めたことは、「御顔の光」です。それを、自分の上に照らすことを願いました。光は、真理を表します。「御顔の」と形容されているのは、神様が顧みてくださって、真理を示してくだされることが表されています。

 その真理は、神の御心と言い換えることができます。それを知り、行うことで、神の特別な取り扱いをいただき、永遠の資産を受け継ぐことができるのです。それがダビデにとって「良い」ことだからです。

4:7 あなたは喜びを私の心に下さいます。それは彼らに穀物と新しいぶどう酒が豊かにある時にもまさっています。

 それを心の喜びと言っています。それは、多くの者が求める穀物と新しいぶどう酒というこの世の満たしに対比されてます。「彼らに」と表現されていて、それは、「多くの者」が求める物です。それとダビデの喜びとするものが対比されていることがわかります。

4:8 平安のうちに私は身を横たえすぐ眠りにつきます。主よただあなただけが安らかに私を住まわせてくださいます。

 彼は、「完全さ」のうちに横になり眠るのです。ここでは、戦いのことを扱っているわけではありません。文脈からは、彼が正しい歩みをしているので、主の祝福があるのです。この節の前半は、彼の敬虔な歩みがあり、その中で守られて眠ることができることを言っています。それは、主が応えてくださるからです。

 そのような生活ができるのは、主がそうしてくださるからで、安全のうちに住むことができるのは、主のお取り扱いです。

・「平安」→完全さ。

・「安らか」→安全、無事。

ピリピ

4:7 そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

 理解は、一般的な理解とは異なり、人が信仰によって神の御心を受け入れる器官を指しています。それが神の御心に完全に整合していることは幸いですが、必ずしもそうではありません。そのようにその人の持つ教えの欠けたところを超えた神の完全さが、その人の心と考えをキリスト・イエスにあって守ってくれます。「心」は、良いことも悪いことも出てくるところとして一般的な心を意味します。「思い」は、行動の元となる(思いの結果としての)考えのことです。神様がそれらを神の教えの完全さをもって守ってくださるということは、心が神の教えを受け入れることができるようにしてくださり、たましいが神の教えに従って行動できるようにしてくださるということです。

 「平安」は、原意は、「完全さ」のことです。平安と訳したのでは、整合しません。なぜならば、その人の持つ教えや行動の元となる考えは、平安であるかどうかに依存しないからです。そのことは、九節のことからも明らかです。

 私たちが思い煩うのは、神の真理を完全に知っていないからです。人間的な思いや考えで判断しようとするので、思い煩うのです。神の御心は、私たちの思いを超えています。

・「理解」→人が信仰によって神の御心を受け入れる器官。

・「平安」→完全さ。

・「思い」→心、特にその最終的な出力(体系的な理解)。この-maという接尾辞は、思考の結果、すなわち、心を使った結果もたらされる個人的な評決を強調するものである。

--